戦争の肯定なくして戦争の終息はなし

不都合な真実

こんにちは、デデです。

 

あなたは戦争反対ですか、と問えば答えは誰でもわかりきっていることであり、
わざわざ立場を表明するまでもありません。

 

ところが戦争を肯定しますか、と聞くとちょっと意味が通じなくなり、言葉のニュアンスだけで「戦争を否定します」とだけ言いたがる人が多くなるのではないでしょうか。

 

そこで「戦争を肯定する」、とは何かを問いたいのですね。

 

戦争を肯定したところでいいことはあるのでしょうか。

 

結論からいうと
戦争の肯定なくして戦争の終息はないのです。

 

 

戦争の肯定と聞くと物騒な考えかと思うかもしれませんが、戦争の肯定とは、

戦争をおこして儲かりたい人がいる、

戦争をおこして人々を争わせたい人がいる、

「だから戦争は起きているのだ」と十分理解しその事実を受け入れることが戦争の肯定です。

 

つまり国際金融資本(DS)の存在が戦争を引き起こしている、と理解することが戦争の肯定なのです。

 

DSが存在する限り戦争は起こされている、戦争は起きてしまうものなのです。

 

この戦争の肯定ができるというのは戦争の本質を理解していることになります。

 

DSにとってそういう戦争を肯定する人(=真実を知る人)が増えるというのはDSの存在を知る人が増えたということで、それでは困るのでDSは自らの存在を知られないように、ある一定の世論と疑似環境を大衆に作ってもらうよう、テレビでいつもターゲットとなる悪人とか責任をとるべき人とかされる人が演出されます。

 

DS傘下のメディア悪の張本人はあいつだ、視聴者の感情に畳みかけてくるわけです。

大衆の感情に訴え大衆にやってもらう芸術

 

こういう戦争肯定の目線でDSの存在を知り、
DSが私腹を肥やすための方便として戦争と認識してしまえば、
テレビのニュースがいつもの彼らの悪だくらみにしか見えなくなり、
相手にしなくなることで戦争の世論を生まれにくくしていき、
戦争が地上からなくなっていく、つまり戦争の終息となるのです。

 

だから戦争の肯定なくして戦争の終息なし、なのです。

 

誤解のないように言いますと
戦争を肯定する人戦争を否定する人も戦争反対の立場には変わりません。

 

いかにわれわれがメディアにダマされているかは下記動画をご参照ください。

 

一番の問題は日本民族が戦争の肯定する目線を確立できぬまま、情報が統制されてホイホイと戦争へと駆り立てられてしまうときなのです。

情報が与えられなかった結末

 

古事記上巻の説く言霊学では日本語の前身とも言える言霊原理において、
3次元におけるこの世に須佐の男の命の精神が物質と科学に重きを置いて好き放題し、月読の命の精神が学問的、哲学的観点を持ち出して対立していることになっています。

 

そしてわれわれは

天照大御神の言霊原理

を日本語にて備えることになっているため、
悪さを仕掛けたのは誰の仕業とかすぐにピンとくることになっているのです。

 

古事記上巻のいう教訓とは須佐の男の命とも言えるDS、そして物質科学文明の賜物のテレビという洗脳道具が好き放題すると、月読の命の制止も効かず、われわれ日本民族の天照大御神さえも天の石屋に隠れてしまうということです。

「天の石屋」の天照大御神を洞穴から出したい

 

戦争の否定とはDSの存在を知らされず、DSの手段で洗脳され、ただ戦争はよくないという漠然とした考え方である一方、戦争の肯定とはDSの存在を認め、悪さする須佐の男の命(=DS)を対処する天照大御神の知恵を頭のなかに取りもどすことです。

 

古事記上巻の教訓をくり返しますが、われわれ日本語民族による本当の戦争の終息へ導く術とは、心の高天原において天照大御神の視点でDS(=須佐の男の命)の悪仕掛けを見抜き、そのような望ましくない傾向を学問・哲学・宗教(=月読の命)で照らしあわせて、わが国と日本民族にとって望ましい結末に落ち着こうと、この世の仕組みの下に一致することです。

 

すると不思議とその一致だけでわれわれの高天原は日本語民族が慕う天照大御神の最高の判断力であふれ

戦争とは全く無縁の、調和の社会

に向かいやすくなるとも言えます。