日本民族は身禊で科学主義から解き放たれる

テレビ論

こんにちは、デデです。

 

ナシーム・ニコラス・タレブ氏の言葉で「科学主義」というものがあります。

 

国際金融資本(DS)のエリート層による利権がらみのシナリオがすすむように、本来の科学を度外視した、科学のような論理、そしてリスクを負うことなくただお金儲けの発想でエセ科学の論理、そのような論理が科学主義です。

 

科学主義

科学っぽく見えるものが科学であるという思い込み。科学が持つ懐疑的なプロセスよりも、表面的な側面ばかりが重視される。科学主義は、エラい人が一定の指標に基づいて貢献度を評価するような分野にはびこっている。また、ジャーナリストや学校教師のように、科学を”実践”することなく講釈ばかり垂れている人々がのさばっている分野にもよく見られる。

引用:ナシーム・ニコラス・タレブ著「身銭を切る」千葉敏生訳

 

今回のコロナ禍茶番劇でもこの科学主義はかなり思い知らされましたね。

 

われわれ日本民族は身禊によって科学主義を払拭することができるのです。

 

 

このコロナ禍でわれわれ日本民族に仕掛けられた罠は、政府・メディア・医師会によって科学主義の考え方を大衆に刷り込むことでありました。

 

しかしながら現実には次のものが真実でありました。

  • 流行り病の存在を世界で未だ誰も出せていない
  • マスクの横脇からの吸入状態は感染対策に無意味である
  • PCR検査とは数ある病原体をなんでも拾い、特定の病原体だけを識別するような検査ではない
  • 予防注射はその中味に人間の体によくないものが含まれる治験行為

 

はっきり言いますが科学主義の目線がエリート層にとって都合がいいのは、あとからウソがわかって責任問題となっても「流行り病があることになっていた」「知らなかった」と逃げられるからです。

 

本来の科学がそんないい加減なものであってはダメでしょう。

 

ですから本当の科学にはタレブ氏の指摘する懐疑的なプロセスを欠かすわけにはいかないのです。

 

この懐疑的なプロセスが言霊学における身禊と同じにあたります。

 

ちなみにテレビから流れる科学が懐疑的なプロセスを経るには、科学主義の御用学者と懐疑的なプロセスを重視する学者を集めて議論させればいいだけですが、テレビ局はDSですからそんなことをするわけがないのです。

 

よってメディアを通じて科学主義の御用学者によって疑似環境が作られているのが現在のわが国です。

 

マスクをしている人は疑似環境のなかにいるということです。

 

タレブ氏は科学主義について次のようにも言っています。

科学をダシにして商品を売りつけようとする商人たちの猛攻のせいで、多くの人々が頭のなかで科学と科学主義を混同している。科学の本質は、主にプロセスの厳密さにあるのだ。

引用先:「身銭を切る」 千葉敏生訳

 

科学と科学主義の混同とはまさに疑似環境を作ってしまうことであります。

 

それに今回のコロナ禍でわれわれ日本民族をある行動へと誘導したがる政府・メディア・医師会は、彼らの科学主義目線でもって物事を合理的とか非合理的と分類して、非合理的なほうを何度も貶めることをしてきました。

 

ここで言う合理的とは彼らが推し進める望ましい手順に沿うこと、彼らによってあらかじめ決められた手順に沿うことを意味し、非合理的とは彼らの考えと食い違う手順をとる考え方ですね。

 

科学主義とは、科学を懐疑的なプロセスでアプローチせず、もっともらしくあれもこれもと複雑化しようとする浅い考え方なのです。だからわれわれに自粛だのお願いだの協力だの言われて科学主義の発想に付き合わされてきました。

 

  • 流行り病の存在を世界で未だ誰も出せていない
  • マスクの横脇からの吸入状態は感染対策に無意味である
  • PCR検査とは数ある病原体をなんでも拾い、特定の病原体だけを識別するような検査ではない
  • 予防注射はその中味に人間の体によくないものが含まれる治験行為

 

是非これら本当の科学を日本民族らしく身禊の精神、懐疑的なプロセスで気づいていきましょう。

 

日本民族を守るのはわれわれがいつも使う日本語の前身である言霊原理という宝、それは古事記上巻に鎮座していて、日本語を知る日本民族がこの世界に誇れる古典にいつでも立ち帰れるようになっているのです。