こんにちは、デデです。
古事記に登場する島は「締まり」「区分け」という暗示を含んでおりますので
わが国の言霊原理解釈の一助になっていただけたら幸いです。
今回紹介する最初の島は「淡道の穂の狭別の島」です。
淡道の穂の狭別(あわじのほのさわけ)の島は、言霊アとワ(淡道)の言霊(穂)が
別れて出てくる(別)狭い(狭)区分(島)、という意味です。
言霊アといい、言霊ワといい、穂といい、それぞれの言葉の意味については、
これからどんどん明らかになっていきます。
淡道の穂の狭別の島に座する言霊(=神)を確認していきましょう。
ここに座する言霊は天の御中主の神です。
本内容は島田正路著「古事記と言霊」に沿って、私なりに内容をまとめたものです。
天の御中主の神
:言霊ウ
古事記は「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時」で本文が始まります。
そして先陣を切って登場する神が天の御中主の神(あめのみなかぬしのかみ)です。
「天地の初発の時」とは何の暗示でしょうか。
おそらく通説によれば古事記上つ巻は神代という古典だから、
地球が生まれた時くらいのはるか昔のイメージをお持ちになるかもしれません。
言霊学の言霊原理とはわれわれの頭のなかにある、もしくは脳内にある
心の先天宇宙の出来事を解明しようとする原理であります。
つまり天の御中主の神がわれわれの心のなかにポッと生まれる瞬間を表現した
古事記の「天地の初発の時」というのは、心の動きが始まるその瞬間のことで、
その瞬間とは「今・ここ」にあたります。
「天地の初発の時」は現象としてわかる以前の、
心の先天活動が開始される瞬間について言っているのです。
古事記上つ巻で神様が生まれ登場するたびによく繰り返される表現ですが、
心の動き(=言霊)が成立し、生まれ始める瞬間のことを
「成りませる」神の名は、
と書かれてあります。
この「成り」は大和言葉で「鳴り」であった可能性もあると考えられています。
天の御中主の神という言霊は人間の心のなかで
人間万事すべての活動が始まる出発点
だということです。
天の御中主の神の「天の」は心の宇宙の、という意味。
「御中主」とはその宇宙の中心にあって、
すべての意識活動の元(主人公)としての、という意味。「神」はそういう実体の事。
引用先:「古事記と言霊」天地の初発
われわれの心のなかに先天宇宙があり、そこで何かを意識するその瞬間が
どんなに小さくてささいなものであっても、たった今・ここで何かうごめきはじめ、心の活動を開始し始めるのですから、その瞬間の一点こそ宇宙の中心になるというわけです。
われわれの心のなかではつねに考えが起きては消えての繰り返しです。
心のなかとは広い無限の宇宙の存在だなあ、と感じたことがあるでしょうか。
無限の宇宙において、有限の生命である人間の心の活動が始まる一点が
天の御中主の神なのです。
その無限の宇宙を天といい、最初の有限のものを中主と言います。
その天の御中主の神が示す役割の言霊は言霊ウであります。
言霊ウとは心の宇宙の中心が動き出す瞬間ということになります。
うごめく瞬間の言霊ウは「欲望」からすべてが動き出す、心が動き出すことから「欲望」という概念をあてています。
古くからあった言霊原理に沿って古事記が編纂されたわけなので、
言霊原理の最初の言霊ウに天の御中主の神という名がつけられたのです。
最初にウが来るのは、母音アイウエオのなかで人間が無意識に発する最初の音はウであったり、「ウ」のイメージとしてうごめく、うまれる、うごくがあったりするからだと考えられています。
心の先天宇宙でこの言霊ウが動きはじめると、
次におこるのは「するもの」と「されるもの」という主体と客体の二元性です。
それが言霊アと言霊ワなのですね。
言霊アが主体の「するもの」、言霊ワが客体の「されるもの」であります。
言霊ウという「今ここ」のはじまりが次に主体と客体を生む、その真理が
言霊ウの座する島の名称である「淡道の穂の狭別の島」の意味も見えてくるのではないでしょうか。
淡道の穂の狭別(あわじのほのさわけ)の島は、言霊アとワ(淡道)の言霊(穂)
が別れて出てくる(別)狭い(狭)区分(島)、という意味です。
以上、淡道の穂の狭別の島に座する神(=言霊)を紹介しました。
次回は言霊アとワが座する島、伊予の二名島を紹介します。