古事記「事戸渡し」は単なる離婚話ではなく大和魂の発露

日本民族

こんにちは、デデです。

 

古事記のなかで「事戸渡し(ことどわたし)」という場面があります。

 

古事記での事戸渡しとはどんな場面かを一般的解釈で言いますと、
日本書紀でも「絶妻(ことづま)の誓(わた)し」とあるように

伊邪那岐の命が伊邪那美の命に離婚を告げる場面

です。

 

古事記の一般的通説では、伊邪那岐の命が黄泉国(よみのくに)で探し求めていた伊邪那美の命と再会できたものの、醜女や黄泉国の軍などから攻撃を受け、思わず伊邪那岐の命も逃げ出し、逃げてきた高天原の境で伊邪那岐の命が事戸渡し、つまり離婚を決意する、そんな展開です。

 

そのような離婚という事戸渡しの場面が言霊原理だとどのような教訓を含んでいるのか見ていきます。

 

結論としては
事戸渡しは文明発展に寄与しようとする日本民族が持つ大和魂であります。

 

本内容は島田正路著「古事記と言霊」に沿って、私なりに内容をまとめたものです。

 

事戸渡しのきっかけは物質文明の攻撃

古事記の通説では、伊邪那岐の命が伊邪那美の命を追い求めて黄泉国に足を踏み入れたとき、黄泉国がなんとも世にも恐ろしい世界であることが判明しました。

 

それにびっくりした伊邪那岐の命は黄泉国から現れた八雷神、黄泉醜女、黄泉軍などに追われることになり、醜く変貌した伊邪那美の命にも追いかけられてしまうことになります。

 

大切なことは言霊原理で読み解くと、古事記は神話の話ではなく、「今ここ」の摂理を説いていることを思い出してください。

 

言霊原理で読み解くと、高天原から降りてきた伊邪那岐の命が黄泉国からの攻撃を受けたという展開なのですが、ここには明らかにメッセージがあります。

 

伊邪那岐の命が受けたショックとは、物質科学文明(=黄泉国)で見たものが不調和で、競争重視で、自分中心の、あいまいなものばかりだった、つまり主体の力動である伊邪那岐の命が

物質科学文明の賜物があまりに不調和すぎて違和感を持った

という暗示であります。

 

黄泉国とは高天原の精神文明と真逆の客観的物質科学文明の世界でありました。
そして伊邪那岐の命が黄泉国で見た客観的
物質科学的発想とは不秩序で未完成で中途な状態なものばかりで、その賜物というべき物品、あり方、考え方が高天原の理想の精神構造を持った伊邪那岐の命(=主体の力動)にとって

そぐわない、受け入れられない

と感じてしまう瞬間だった、ということです。

この瞬間の伊邪那岐の命(=主体の力動)は天津菅麻音図にて
建御雷の男の神という人間の理想の精神構造を携えていますが、
「男」の字がつくように、まだ主観的なところがあるのは確かです。

 

つまり、
われわれの脳内で精神世界の道徳的思考と物質世界の賜物がぶつかりあったというわけですね。

 

たとえばわが国に外国からもたらされた物質科学文明の賜物がメディアなどで話題になっているので、よく調べ上げたら体に害を及ぼす物質が入っていたり、日本人の性に合わずわが国の社会によくないのではないかと思うほどの未完成さがあったりするのに気づいたときがありませんか?

ちょっと大丈夫かなと不安な感じがする、そういう違和感です。

すると色々調べたり、大丈夫かどうかわかるまで避けておいたりしますよね。

 

違和感を感じて脳内がグルグル回っている状態を「黄泉国から追われている状態、攻撃」と古事記上巻が示しているのです。

事戸渡しと千引の石

古事記の通説では高天原と黄泉国の境にある黄泉比良坂で、伊邪那岐の命が
千引の石(ちびきのいは)を置き、千引の石をはさんで伊邪那岐の命と伊邪那美の命が向き合います。
そして、事戸を渡す、離婚する、という展開です。

 

千引の石とは千(ち)という道(血)に通じる五十葉(いは)、
つまり道理を明らかにした言霊50音のことであります。
さらにここでは32子音を指し、斎き立てた天の御柱から生まれた心、霊、精神、
創造意志のことであります。

斎き立てる天の御柱の意味

 

今まで伊邪那岐の神と伊邪那美の神の2神が協力して国生みで32子音をつくり、
そのおかげで音図もできあがって、考えも現象化できるようになって、伊邪那岐の命も人間の理想の精神構造を獲得できるようになっていました。

しかし客観的物質科学文明において黄泉津大神(よもつおほかみ)となって治めようとしている伊邪那美の命とは方向性が異なることがわかったのです。

そこで伊邪那岐の命は千引の石(=言霊50音)を間にはさむことで主体性を持ち、
その黄泉国の賜物をせき止めるようにして、まるで結界をはったかのように聖域である高天原に入れさせない、というわけです。

 

物事を判断する主体側が物質主義欲求が出そうになったとき

何かおかしい、どうも腑に落ちない

事戸を渡す知性を、千引の石が物語っています。

 

ところで物質科学文明が完成を見た現代では、ビジネス優先で利権やお金儲けの賜物が一線を越えるようになっていて、すでにわれわれの間ではそのような賜物に対し事戸渡しが増えてきて千引の石が置かれるケースが少なくないのではないでしょうか。

事戸渡しのあとに身禊(禊祓)

事戸渡しで大切なことは物質主義の発想からもたらされる物質文明の産物がすべて悪だから、すべて拒否すべき、という意味ではありません。

現代の物質文明でもたらされたもののなかには幾度も精査されて
現在でも長く恩恵を与えてくれているようなすぐれた遺産もあるのです。

その精査の行為にあたるのが身禊(禊祓)であります。

 

しかし現代における物質科学文明において新しく導入されたばかりのアイデアとか産物はまだ経験や検証が浅く、時間を経過したあとの実績がないために、
物質の不確かさや未完成さはすぐに明るみになりやすいものです。

 

そのような未完成なアイデアと産物とはいえ、何度も何度も精査されて弱点が批判され、やがてその弱点を克服することになれば、わが国において

調和のとれた善き文明をもたらすことになる

と判断されるわけです。

 

そこで客観的物質科学文明の由来であっても最初から突っぱねず、
物質主義の産物のいいところを見抜きながらも、批判を重ね、
わが国の文明創造発展となる結論に落ち着くような言葉を選んでいこう
と前向きな見方をするのが身禊であります。

 

だけど弱点が克服され、わが国と日本民族に安全とわかるまでは事戸渡しですよ、となります。

 

事戸渡しもなく、物質重視の考え方でいると、千引の石さえも置こうとせずに、
高天原がいとも簡単に物質的思考にそまってしまい、身禊までたどりつけないことになります。

 

その温床のひとつがテレビです。

テレビを見る上でのたしなみ

 

事戸渡しこそ言霊原理と50音言霊を学んで知るべき日本民族の大和魂であり、
言霊原理に基づいた古事記が告げる事戸渡しの正体であります。

最後に

言霊原理の事戸渡しについてお伝えしました。

 

日本民族は神武天皇即位以後約2000年にわたり、たえず外国から物質文明の影響働きかけを受け、その度に事戸渡しをしてきているのであり、現代でも継続中であります。

 

ところが物質科学文明はすでに完成を見たと言われ、事戸渡しをしなくなった日本民族の数が圧倒的に増えたところで、今後は物質文明の衰退となり精神重視文明へ反転していくと言われています。

 

今こそわが国全体が事戸渡しを思い出すときであり、社会がおかしい、政治がおかしいと違和感を感じる時は是非この事戸渡しに立ち返ってみてほしいのです。