介入は責任をとる大和魂を見せているときにのみ本物

テレビ論

こんにちは、デデです。

 

介入という言葉がありますが、この言葉の意味を調べると次のとおりです。

介入

当事者以外の者が入り込むこと。争いやもめごとなどの間に入って干渉すること。

 

ここである人が当事者間の介入に入ってきて一番いけないパターンはその問題がますます手のつけられない、大きな展開になることです。

 

ある人が介入してきてまともなことを言っているように聞こえても、結局おかしなウソが入っていて何の解決にもならないときは、なんらかの責任をとらせるべきです。

 

 

今回のコロナ禍でよくお分かりのように、わが国では多くの政治家、専門家、知識人がメディア出演というカタチで介入していたと思います。

 

彼らの数々の発言によってコロナ禍は克服できる、そう信じた人が多かったように見受けられましたがコロナ禍の結果はどうでしたか。

 

対応が難しいコロナ禍である、という彼らのトボケがあるとすれば、流行り病の存在を信じている人から同情を得られそうですが、コロナ禍がウソだとすでに見抜いている人からしたら彼らはメディア番組の完全な役者であります。

 

海外ではとっくに茶番劇のコロナ禍が終了しています。

「あることになっている」ミステリー現象とは

 

すると、その役者連中はなんらかの責任をとってくれるのでしょうか。

 

今まで政治家、専門家、知識人たちがあれこれ自分の説が正しいと証明してきたはずでありますが、それを信じた国民に不自由な生活で迷惑がかかっている点の責任と、彼らの発言によるコロナ禍長期化の責任はどのようにとってくれるのでしょうか?

 

おそらく彼らからは謝罪や賠償などなく、責任など考えてもいないでしょう。

 

介入する人がウソをついて、そんな世論誘導が社会でいつまでもまかり通るようであれば、今後も意図的な世論誘導を作ろうとテレビを使ってもっともらしく肩書のついた誰かが介入してくることになるでしょうし、それに対してわれわれ日本民族がもっと介入してくる人間の発言を精査する役割を負ったほうがいいことになります。

 

そこでナシーム・ニコラス・タレブ氏は著書「身銭を切れ」のなかで介入という行為はこうあるべきと原則を提案しています。

「何よりもまず、害をなすなかれ」

「リスクを負わぬ者、意思決定にかかわるべからず」

 

レオナルド
レオナルド
「身銭を切れ」ナシーム・ニコラス・タレブ著 千葉敏生訳

 

当事者に害をもたらさない、そしてなにより、自分の発言に責任を負わないのなら意思決定をくだすようなことをしない、です。

 

これはテレビの御用学者のみならず、われわれの人間関係全般、組織のルール、そしてわれわれの子育てにも役立てることができます。

 

自分は責任をとれるような発言をしているのか、自省する作業が大切になってきます。

 

望ましい結論へと介入するには責任が伴い、責任をとろうとするものが本物です。

 

言霊学では身禊のあとに誕生する天照大御神、月読命、須佐之男命の言霊原理とその三権分立を理解すると、おのずと責任を自覚させてくれるようになっています。

 

この人は自分の発言に責任を持って介入してきているのか、やむにやまれぬ大和魂から介入してきているのか、そのような品定めをわれわれ日本民族が身につければ茶番のコロナ禍などたちまち終了していくはずであります。