天地の初発の時が言霊原理のヒントに

日本民族

こんにちは、デデです。

 

古事記上巻の始まりは「天地の初発の時」です。

天地(あめつち)の初発(はじめ)の時(とき)
高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、
天の御中主(あめのみなかぬし)の神

引用:「古事記」

 

「天地の初発の時」を知っている人も知らなかった人も、
「天地の初発の時」の本当の意味を理解した人から、
古事記上巻の本当に伝えたかったことを理解していくことになります。

 

結論としては
「天地の初発の時」「今ここ」は自分で見つけるものです。

 

日本人なら知っておきたい古典の真実です。

 

本内容は島田正路著「古事記と言霊」に沿って、私なりに内容をまとめたものです。

天地の初発の時と天の御中主の神

古事記上巻は「天地の初発の時」と申しました

 

われわれの認識ですと、この「天地の初発の時」というものは
「およそ137億光年前の宇宙のビッグバン」として扱われています。

 

ここで古事記上巻について知っていていください。

古事記上巻は言霊原理について書かれた教科書なのです。

 

「古事記」編纂の太安万侶は、読む人がまずここでみんなダマされてほしい、と願っていたでしょうし、当時の天皇の了解の下、言霊原理を守ろうという意図的な隠没を目的としていたので、簡単に読む人に気づいてもらっても困る状況だったのです。

邦家の経緯、王化の鴻基とは何か

 

ですので皇族だけには言霊原理が守られていたのです。

日本語の言霊や言霊原理に興味を持っている方へ

 

つまり、古事記ができあがる前から言霊原理が存在していたのであり、古事記の編纂よりも言霊原理の存在のほうが古いのです。

 

ところでわが国の最初の神は「天地の初発の時」天の御中主の神ではありません。

言霊原理研究の知識人たちによると、
古事記上巻に登場する神々は太安万侶が考えてつけた名前です。
他の歴史文献文書の神の名前から拝借・参考にしている例が多くあります。

たとえば他の歴史文献文書では天の御中主の神のような名の天皇がいるけども、記録に残された即位はずいぶん遅めです。
しかも天の御中主の神という名前ではなく、

天の御中主聖天皇

という記録です。

 

そこで古事記上巻の「天地の初発の時」のあと、なぜ天の御中主の神が高天原でトップバッターとして最初に登場する扱いになっているかというと、言霊原理のトップバッターの言霊ウ赤ちゃん目線の性格であり、その赤ちゃん目線を言いたかったからです。
天の御中主の神の名の暗示とは、

心の宇宙の(天の)中心にあって(御中)すべての意識活動の主人公(主)の実体(神)

です。
繰り返しますが、この名をつけたのは「古事記」編纂の太安万侶、の可能性が高い、ということになるのです。

 

古事記上巻が「天地の初発の時」で言いたいのは、

誰でも天の御中主の神が心のなかにいるんですよ

となります。

もっと言えば古事記上巻に登場する神(=言霊、言霊の整理・運用法)はすべて
心のなかにいることになります。

天地の初発の時と赤ちゃん目線

天地の初発の時の言霊が赤ちゃん目線だと申しました。

 

赤ちゃん目線はいつも「天地の初発の時」なのです。
なぜかというと赤ちゃん目線は純粋で無垢なので、過ぎ去ったことやこれからのことなどではなく、今ここの問題に泣いたりするからです。

 

赤ちゃん目線は「今ここ」の境地なのです。

 

「今ここ」の境地ですから、赤ちゃん目線はただ目の前に見えるものが「今ここ」であり、目の前のものが動いて感じることも「今ここ」となります。

 

そして成長してくると「今ここ」のレパートリーが増え、積極的に体を使うことも「今ここ」の境地です。

「今ここ」で何かに対処しようとする、その瞬間が言霊の始まる天地の初発の時であります。

 

赤ちゃん目線はいわば自分が主役。
傍若無人の意味ではなくて、

自分がなすべきことを自分で感じて「今ここ」から表現しようとする

のが赤ちゃん目線です。

 

「今ここ」の境地は自発的なものであります。

 

だから「今ここ」の修行には一人で静かにすることがいいのです。

天地の初発の時と坐禅

「今ここ」の鍛錬で坐禅という方法があります。

坐禅ほど「今ここ」とぶつかる修行はありません。

 

坐禅で心を無にしなさい、と目を閉じますが実際やってみるとうまくいきません。

 

心の宇宙とは「天地の初発の時」がどんどん湧き出るものなのですから、
いつまでも心を無にするなど、もともと難しいことへの挑戦であります。

 

坐禅修行の結果、いつでも心を無にできる人間はいないと思います。

 

そうではなくてその修行をつんで

  • いつも「天地の初発の時」を見ようと平常心である
  • いつも「天地の初発の時」から始められる
  • いつも「今ここ」からの日常生活を継続する

そういう人間にはなれるのです。
赤ちゃん目線で動ける聖人ということです。

 

坐禅だと心の宇宙に湧き出たものに気づけるけども、日常生活では気づけない、これでは野狐禅になってしまいます。

 

正法眼蔵を著した道元も坐禅箴のところで

作仏を求めざる行仏(仏になることを求めない坐禅行が始まり)

「今ここ」に立ち返る注意喚起をしています。

 

日本文化の禅太古の言霊原理には「今ここ」という共通点があるのです。
その共通点とは「天地の初発の時」を自分から見つけていくことなのです。

最後に

「天地の初発の時」「今ここ」であり言霊の始まりであることをお伝えしました。


言霊学研究の知識人たちの書籍を読めば、先哲たちはみな「天地の初発の時」のページを枚数かけて説明しています。

 

それにわが国の神様への本当の理解も「天地の初発の時」にあるとも言えます。

 

そして現代社会で大切なことは他人につくられた現象を見せられるのではなく、
自分で、自分から、自分の心の先天宇宙のなかにいつも湧き出てくる
「天地の初発の時」「今ここ」を見つけることなのです。