身銭を切る真理と身銭を切らない須佐之男命

流行り病

こんにちは、デデです。

 

古事記上巻の言霊原理のひとつである言霊学の身禊はわが国と日本民族にとってよりよい文明が創造されていく方法論として解釈されています。

 

そこでいざ身禊の考え方を実践に取り組むとき、自分が心がブレないように自覚する心がまえとなるのが「身銭を切る」真理です。

 

身銭を切る真理とは言霊学から見ると自分の高天原(=脳内)の言霊を意識して、その脳内において次々に生じる言霊を望ましい結論にて現象化しようとする、そのマクロ版と言いましょうか、つまり自分の望むことを他からなんら束縛されることなく自由に活動する一方で、きちんとその分の責任とリスクを負う自覚のことです。

 

わが国が国際金融資本(DS)からの支配から脱却し、今後よりよい国づくりをすすめていくにはわれわれ日本民族が身銭を切る真理を知識武装しておく必要があります。

 

 

そもそも身銭を切るという言葉はナシーム・ニコラス・タレブ氏の言葉です。

 

その意味をその著書「身銭を切れ」から引用します。

身銭を切るとは対称性の問題だ。いわば損害の一部を背負い、何かが
うまくいかなかった場合には相応のペナルティを支払うという話だ。

引用:「身銭を切る」第1部 「身銭を切る」とは何か

レオナルド
レオナルド
「身銭を切れ」ナシーム・ニコラス・タレブ著 千葉敏生訳

 

ここでの対称性というのは、相応の行為に対してそれ相応の報酬受けることなったり、相応の行為に対して残念ながら相応のペナルティを支払う、つまり不都合な結果でもきちんと責任を負ったりするメカニズムのことですね。

 

自分が責任をとる自覚のもとで主体的に自由に活動し、その対称性として報酬を享受し、あるいはペナルティに向き合うことが身銭を切る真理です。

 

それでは反対に非対称性となると、相応の行為に対して不都合な結果になって相応のペナルティを支払うとき、つまり責任を取ることになったときに、その主体がペナルティを負わず、その責任を他人に転嫁してしまうメカニズムとなります。

 

たとえば政府と国民の関係はつねに非対称性の関係にあります。

 

よって、身銭を切る真理とは自分の言霊(=考え)と向き合い、望ましい結論に向かって責任とリスクを自覚しながら結果を出そうとする際の、自分の内面を出発点としなければなりません。

 

すると自分が主体として自由に行動できるわけですから、いかなる外部からの束縛から解放されますが、責任やリスクもきちんと面倒を見ないといけない、この対称性に真理があるのが身銭を切る真理です。

 

この身銭を切る真理は言霊学でいう言霊原理を用いずに望ましい結論(=天照大御神)を体現しようとする月読命と言えましょう。

 

ところが、身銭を切らない言霊の下ではどういうことになるかというと、自分の内面に向き合っていませんから、相応の行為を行ったとしてもできる限り責任やリスクに巻き込まれないように報酬を得ることが主眼となりがちなのですね。

 

ですから身銭を切らない言霊では、責任回避とリスク回避を実現できるためなら、必要な束縛をなんでも受け入れることになり、自分の自由がまったくないか、少なくなることになります。

 

身銭を切らない行為には対称性がないので、そのような社会環境では見返りになるはずの報酬に意味不明の搾取が行われたり、責任転嫁に不当な偏りが見られたりするようになるのです。

 

そして結果的に昨今の物資科学文明において、権力重視体制やピラミッド搾取社会が構築されているのがわが国であります。

 

言霊学ではその物質科学文明のことを須佐之男命と呼んでいます。

 

身銭を切らない言霊の集合が物質重視社会の構成要素となってしまうのです。

 

そのような身銭を切らない権力者によるピラミッド搾取社会がもたらす弊害とは、権力がトップダウン形式でモノを言うことになり、おかしいと思いながらも誰も責任を取りたくないことから、少しずつ決められるルールで身動きがとりづらくなる社会環境ではないでしょうか。

 

身銭を切らない連中の設計した物事は、どんどん複雑になる傾向がある(そして、最終的に崩壊する)。

引用:「身銭を切る」第1部 「身銭を切る」とは何か

 

たとえば身銭を切らない管理者を据える組織勤めの方ならお気づきのように、ISOの更新、コンプライアンスの遵守、流行り病の感染時対応マニュアルなど、本来の職務と関係のない作業がどんどん増えてしまうのは不合理なことです。

 

そして身銭を切らない影響は社会全体に広がり、物事を言われたとおりに複雑に考えてしまうクセのある人であふれているように感じます。

 

身銭を切らない人々は、シンプル性そのものが理解できない。

引用:「身銭を切る」第1部 「身銭を切る」とは何か

 

つまり単純にデータの数字によって現状の証拠として結果が出ていても、物事をシンプルにとらえてくれない。

 

それどころか、メディアで言われたとおりに複雑に考えてしまい、その置かれた環境のなかでわが身優先でなるべく責任とリスクを負わない結論で落ち着こうとする管理者。

 

身銭を切らない管理者と同じ組織で身銭を切る真理を実践しようとする人は、非対称性の不当扱いでなかなかしんどい扱いを受けることになります。
ですから身銭を切る真理を知る人はその自分とは合わない環境から次々と姿を消していくことになります。

 

身銭を切らない須佐之男命が作り上げた物質科学文明のピラミッド搾取社会。
そこで身銭を切る原動力を妨げるものはなんといってもお金です。

 

国際金融資本(DS)による不透明なお金の流れが正しくならないことには、わが国がDSの呪縛から解き放たれることがないのですが、今後それが是正されるなら、われわれ日本民族は言霊原理とともに身銭を切る真理へシフトしていくほうがたとえお金がわずかであっても自分の内面を満たす幸せな黄金時代となっていくのですね。

 

だから身銭を切る真理を知る人ほど、この茶番劇のコロナ禍がDSの利権の目的であると知っているので、無意味なマスクや予防注射で儲けようとする、身銭を切らない政府体制に従わずに次々と離れて行くことになります。

 

そしてできるものなら、身銭を切るような仕末の困る人を政治家に据えるという、望ましい結論に落ち着きたいといつも願っているのです。

西郷隆盛と仕末に困る人