木鶏の喩えは言霊と向き合う方法を示唆している

日本民族

こんにちは、デデです。

 

中国古典の「荘子」と「列子」に「木鶏」の逸話があります。

 

木鶏の逸話は人間力向上の喩えとして、私のような中年の日本民族の間では特に愛されてきた教訓のひとつと言えるのです。

 

木鶏の喩えはわれわれの高天原(=脳内)の言霊と向きあう修練として、最上の方法論と捉えることができます。

 

 

木鶏のあらましは次のとおりです。

中国に闘鶏が好きな、とある王がいました。

 

鶏同士を蹴り合わせるのが好きで、ゆえに噂に聞く紀渻子という闘鶏を養う名人に鶏を預けて調教させました。

 

ところが全然鶏を戻してこないので、王が「どうなっている」と聞いたら、「いや、だめです」

 

「何がだめなのか」と確認すると「いや、あれは空元気だけだからだめです」

 

しばらくしてから王が「どうだ、もうできるだろう」と聞いたら、
「いや、まだいけません」

 

「どこがいかんか」と確認すると「相手が出てくると昂奮します

 

それからまたしばらくたって、さすがにしびれを切らしながら王が「もういいだろう」と聞いたら「いや、まだいけません」

 

「今度はどこがいかんか」と確認すると「もう空元気はなくなり、相手が出てきても昂奮しなくなりましたが、その代わり今度は『どうだ』というような、相手を小ばかにするようなところがあってまだいけません」

 

それからまたしばらくすぎて、王が「どうかね」と聞くと、「もうよくなりました。ちょっと木で彫った鶏みたいで、全く何ものでもうかがうことのできないもので、こうなると、おそらくいかなる鶏が現れても、一見して退却するでしょう」

 

早速一番獰猛なやつと蹴り合わしてみたところ、そのとおり、その鶏を見るとこそこそと退却してしまったという。

 

これが木鶏の逸話です。

 

この木鶏の喩えがどのように言霊と向き合えるか考察してみます。

 

まず空元気というのは、人や物を乱暴に扱うところでありましょう。

 

人や物質をどのように扱うかでその人の持つ言霊(=考え)は見えてくるものです。

 

次に相手が出て来ると昂奮するですが、相手とのやりとりで言霊を表す言葉(語彙)の少なさにより相手に言葉で説明しきれず、理性と冷静さを失ってしまうところでありましょう。

 

考え(=言霊)を現象化させようと十分思考をめぐらせておけば説明できる余裕を持てるようになりますし、あわてないようになります。

 

その次の相手を小ばかにするですが、最後まで相手に議論で勝とうとするところでありましょう。

 

本当に真実であるという言霊(=信念)があれば、言い返さずに沈黙をも味方にするようになりますし、議論で勝ったするならばそれは相手のほうからあなたの人格攻撃を始めたとき、という言葉もあるくらいです。

 

最後に、退却したというのは、あなたのオーラと一声だけで相手がやめておこうと気が変わるほどであるということでありましょう。

 

これは勝ち負け、強い弱いではなく、相手に争わない調和のほうを選ばせてしまうことの暗示であります。争う敵がいないことを無敵と呼ぶ所以です。

 

このように言霊原理から生まれた日本語では丁寧なものの言い方もあって、それに理性を工夫に加えれば望ましい結論に落ち着かせることもできる、それが東洋の教え(=月読命)、木鶏の本当の教えのように聞こえるのです。