不動智でおだやかな心に

セネカ

こんにちは、デデです。

 

「不動智」という言葉をご存知でしょうか。
沢庵宗彭著「不動智神妙録」で見られる言葉です。
「不動智神妙録」から不動智にまつわる箇所を紹介します。

不動とは動かないということ、智は知恵の智です。(中略) 
心は四方八方、右左と自由に動きながら、一つの物、一つの事には
決してとらわれないのが不動智なのです。

レオナルド
レオナルド
「不動智神妙録」 沢庵著 池田諭訳

 

われわれ日本人は反省を是とするところがありますから、
気がついたら心が一つの事にとらわれてしまうわけですけども、
そこにとらわれの心にならない強さを、という教えが不動智です。

 

この本が発行された当時の江戸時代は、
真剣を腰に差すお侍さんの人間力が試された時代で、
真剣は相手と対峙するためのもの、というより

真剣を扱う自分

と対峙する器量に重きがおかれていたようです。

もし仮に真剣を手にした相手と構えるのに、
そもそも自分が手にしている真剣に気おくれするような心では
話にならないのです。
だから真剣を手にする時いつもと変わらない心、平常心
問われるようになったのですね。

そして多くの若いお侍さんたちが「不動智神妙録」を求め、
当時としてはめずらしいベストセラーになったと聞いています。

 

「不動智神妙録」が読まれる一方で、
不動智を求める人たちの間では坐禅も習慣的だったようです。
著者の沢庵宗彭自身も「禅」を重視していたこともわかります。

どうやらいつの時代でも心がおだやかであることが最善であったようですね。
その点については古代ローマの哲学者が

「哲学者の講義を聴いたり著作を読んだりすることは、
幸福な人生という目的に結びつけるべきだ」

と言っている言葉につながります。

 

どんどん不動智を重ね持続させていくと、

執着することの罠

がどういうものかわかるようになるのですね。
すると相手に介入したりあおったりする愚昧な行為が無意味に思えてくるので
慎もうとするようになります。

 

著者の沢庵宗彭は言います。

一枚の葉に心をとらえられることがなければ、
何千枚の葉だろうと、すっかり見えるのです。

このことを悟った人は、つまり千手千眼の観音と同じです。(中略) 
何でも表面の一皮だけを見るのが一般人ですが、
浅い知識でこれを馬鹿にして非難するのはなお悪いことです。

何事にも、そのなかには道理が含まれているからです。

この教えのもとに日本人らしいおだやかな心を持ちたいものです。

 

そしてわれわれ日本民族の本当の強さは古来より

「不動智」のおだやかな心を知ることにあった

と、そういう人が増えてくることを期待したいところです。