言霊原理 伊邪那岐の大神

日本民族

こんにちは、デデです。

 

言霊原理シリーズでは

「古事記」上巻は言霊学の教科書である

という真実を世に送り出した言霊原理研究の知識人たちに敬意を払い、
島田正路著「古事記と言霊」を参考にしながら「古事記」上巻の島生みの島々を
紹介し、言霊原理を学んでいます。

 

ひとつ前の女島を終えた地点で計12島が出てきたことになりました。
全14島ですから、残り2島は「禊祓(身禊)」に関連する言霊になります。

 

「禊祓(身禊)」がわかる2島を紹介するにあたって

伊邪那岐の大神

が主役となります。
この主役を解説しておかないといくら2島と言霊の整理・運用法である神の名をふまえて説明をすすめても言霊学の
「禊祓」伝わりにくくなってしまうのですね。

 

そこで今回は伊邪那岐の大神は何者かを紹介することにします。

本内容は島田正路著「古事記と言霊」に沿って、私なりに内容をまとめたものです。

伊邪那岐の大神

まず古事記の「禊祓」へ至るハイライトを大まかに紹介します。

伊邪那岐の神とともに子生みを行ったあとに伊邪那美の神が亡くなってしまった後の話です。(このあと神ではなく命と表記されます。)

 

伊邪那美の命に再び遭いたいと願う伊邪那岐の命が彼女を見つけた先は
黄泉国(よもつくに)でした。
連れて帰ろうとするも伊邪那美の命に黄泉の国のものを食べてしまったからと拒否されて、それならば黄泉国を見ないで待っておいてくれないかと頼まれ伊邪那岐の命は彼女を信じてちゃんと待ちます。
ところがなかなか姿を見せない状況にしびれをきらし、伊邪那岐の命はすすんで黄泉国に足を踏み入れます。
すると伊邪那岐の命が見た黄泉国は世にも恐ろしい世界でありました。
「やっぱり見ましたね」と自身も恐ろしい姿に豹変した伊邪那美の命や黄泉醜女、黄泉軍が伊邪那岐の命を追いかけます。
伊邪那岐の命は追手を振り切り黄泉国と高天原の境まで逃げ切った際、
千引の石を境界線に置いて区切り、伊邪那美の命と言戸渡し(離婚)を行います。
伊邪那岐の命は高天原で伊邪那岐の大神となり「穢(きたな)き国に到りてありけり」と言い、筑紫の日向の橘の阿波岐原で「禊祓(身禊)」を行うことになります。

 

伊邪那岐の大神が出てくるまでの古事記の内容と言霊原理とどうつながるのか、
見ていきます。

 

古事記の上巻の内容は神話形式をとりながら言霊原理にのっとってわれわれの頭のなかの「今ここ」のことを言っていることにご注意ください。

 

まず黄泉国(よもつくに)ですがこれは予母都国(よもつくに)とも書きます。
予母都国はさまざまな文化のあらかじめの母なる都の国、の意から

「言霊原理からはずれ、洗練されていない文化が始まる国」

を指します。
また黄泉国は四方津国(よもつくに)とも書きます。
四方津国は言霊=霊(ひ)の本のわが国(=高天原)以外の、四方へ渡す先、わが国を
囲む四方の国ですから、いわゆる外国、そして外国文化のことです。

 

ところがわれわれの頭のなかの心の先天宇宙を高天原とすると、われわれの目の前のものと、目の前を見て思考する頭のなかも黄泉国となります。

 

古事記の上巻は神々の神話の世界です。
神々の目線に立って見て黄泉国のようなあの世形式の未知の世界となるのは

われわれ人間の「この世」のこと

でもあるのです。
するとわが国の社会も「言霊原理からはずれ洗練されていない文化が始まる国」と言われても不思議ではありません。

 

実際わが国は太古のころ、すでに物質科学文明の到来を見抜いて言霊原理を隠没することを決めたと考えられているのです。

 

明治維新以降わが国は西洋文明のピラミッド搾取社会の流入で、わが国の文明がさらなる客観的物質文明の完成を目指すことになりました。
ですから今のわが国は西洋文明精神である外国となんら変わらない立ち位置なのです。

ただひとつ、救いがあるとすればわが国は「古事記」の言霊原理を保存してきている唯一の国であり、それを自覚できるのは日本語を使う民族だけであります。

 

伊邪那岐の神は心の先天宇宙における心の動き(=言霊)でありました。
その言霊が主体となる力動を命(みこと)で表現されています。

 

伊邪那岐の命が「主観的ながらも完成された人間の理想の精神構造(建御雷の男の神)」を携えて、黄泉国(=洗練されていない外国文化、人間社会)へ乗り込み、
伊邪那美の命(=人間社会の物質科学文明、客体)に近づこうとしたわけです。

 

ところが黄泉国での伊邪那美の命は自己主張・不調和・競争・搾取の状態
どっぷりつかってしまっており、それを目の当たりにした伊邪那岐の命が
心の先天宇宙(=高天原)に逃げ帰ることになった、のです。

この緊張は、「今ここ」で主観を持つわれわれが目の前に起きたことに対して違和感を持つことを表しているでしょう。

 

そこで高天原の伊邪那岐の神(=心の動き)が、心の宇宙にある本来的主観のままでは不調和・未整理の外国文化(=物質社会)とまともに張り合えないと知るのです。

 

そして再び言霊50音図である天津菅麻音図と建御雷の男の神を以て

洗練されていない外国文化をどのように取り扱い、活用できるか
そしてどのような人類文明を創造したらいいか


を検討することになります。

 

高天原にいるこの時の伊邪那岐の神は心の先天宇宙において主観という枠を超え、
本来の伊邪那美の神の役割であった客観、客体的性質をも包みこみ、主体と客体、主観と客観のバランスのとれた
宇宙身の完成を目指すことになったわけです。

伊邪那岐の神と伊邪那美の神が再び一心同体となった、その宇宙身伊邪那岐の大神「大」の字が使われている理由であります。

 

伊邪那岐の大神は主体と客体を含めながら言霊原理にのっとって文明創造を行っていく責任者の立場のことです。

伊邪那岐の大神は、この五十音言霊図表の見地に立って、
黄泉国の客観的研究の学問・文化を摂取し、調御して
それぞれに所を得しめる決定的大原理の確立の仕事(禊祓)の
検討に入ったのであります。

引用:「古事記と言霊」身禊(その一)

 

禊祓とは言霊50音の原理に照らして、いかなる世界の文化の英知を摂取し、
人類の福祉のために貢献し運用される文明創造の言葉を生成する活動のことであります。

 

最後に、「禊祓」に入る前の伊邪那岐の大神がつぶやくことになる、

「穢き国に到りてありけり」

ですが「穢き」が「気田無き」ですから、気と田の無い国、
人間の理想とする生き生きとした言霊原理の精神(=気)の調和と
言霊原理の精神が保たれている言霊50音図(=田)の原理、
それらのない国を見てきてしまった、という意味です。

 

 

以上、伊邪那岐の大神の紹介をしながら「禊祓」の本質をお伝えしました。
「禊祓」と言えば日本神道において肉体を清める意味合いで使われますが、
言霊原理の「禊祓」とは言霊50音図にもとづいて文明創造につながる言葉の生成活動であります。

次回から再び言霊原理の島とともに、「禊祓」に必要な言霊の整理・運用法を紹介することになります。

言霊原理の島 ⑬知訶島