指月の指は日本民族を救う

セネカ

こんにちは、デデです。

 

「指月の指」という言葉があります。
「しづきのゆび」と読めるそうです。

 

「指月の指」は仏教の教えでお釈迦様がたとえに使われたとあります。
お釈迦様の伝えたい真理は言葉で表しにくいものであるからして、
せめて伝える教えから目指す方角でもわかってほしい。
そこで真理というものを夜空に浮かぶ月に例えられ、
真理とはあれだ、とお釈迦様が月を指で指したわけですね。
その指を頼りに方角を見失わないでほしい。

指月の指で月(=真理)の方角がわかる。
そして指月の指で月(=真理)への到達がわかる。
そして指月の指で月(=真理)がだいたいどんなものか体感できる。

 

だから月を差し示すお釈迦様の指から得られるものを見出そうと、指月の指と同じ役割を担うのが仏教の「経典」であります。
仏教の経典はお釈迦様の言霊が文字へ涅槃された媒体で、真理への道を差し示してくれる羅針盤と言えましょう。
経典を頼らずして仏法の真理に近づくことはたいへん厳しいことなのです。

 

「指月の指」が注意していることは、指月の指を真理の境地と思って安住してしまう勘違いであり、大事なのは指月の指にとどまりつづけないで、

月(=真理)にたどり着いたように、真理を実践すること

であります。

 

それでは月(=真理)の存在に気づいていない人はどうなるのかというと、

「真理の光は月のように月のほうからこんこんとこちらに降りそそいで、
いつでも救いの手が差し伸べられている」

だそうで、何か縁があって気づくというのは大切なことであります。

われわれが月(=真理)を求めるようになるまで、月はいつも天からわれわれを見守り、気長に待ってくれているのですね。

 

そこで「指月の指」を思い出しながら鍛錬をくり返すことは
真理に近づくほどに自分が光を放つようになっていく人生で間違いないのです。

 

それだけに何かひとつを極めつづけていくことは、心に決めた「指月の指」と末永く心中する覚悟であり、やがて自分自身が光となるような、とても尊い生き方となります。
古代ローマの哲学者も

「目標をもたぬ人生は、放浪に等しい」

と言っているのです。

 

ところで「正法眼蔵」を著した道元は次のように言っています。

教えを聞くことだけを立場とするということが、
仏道のどこにあるのか。

坐禅だけを立場とするということが、仏道のどこにあるのか。
そのような、
”教えを聞くだけの立場”とか、
”坐禅するだけの立場”とかいうようなことは、
仏道にはないものと知るべきである。

引用先:「正法眼蔵」 仏性

レオナルド
レオナルド
「現代訳 正法眼蔵(上巻・下巻)」 道元著 高橋賢陳訳

 

一般的に「指月の指」に相当するものは、世界の宗教なら各宗教の聖典ですし、
各専門技術に分野においても巧を極めた師匠の教えかもしれませんし、
または熟練者の秘伝かもしれません。

 

「指月の指」の教えを体に浴びるではなく体に浸み込ませるようにして、
いずれ「指月の指」から少しずつ離れていく生き方は悔いのないものとなります。

 

ですから道元の教えのように
「指月の指」を「~するだけの立場」とみなす考えはありえないのですね。

「指月の指」は果てしない到達地だけを見ていつまでも真理を目指しつづける人の背中をいつまでも押してくれるのです。

 

これからの時代は3次元世界で発生した世界的災いをへて新時代の変動期に入ることになっており、われわれ日本民族は何か指月の指を見つけ、指月の指の教えを体に浸み込ませながら正しい情報を自分の直感で得て、生き残っていくことになっていきます。

 

今まで信じていた常識がウソであったと気づくときがくるでしょう。
過去の延長線上で生きることが間違いであったと知るときもくるでしょう。
自分の存在が否定された気になるかもしれません。
もし衝撃なことが起きて人生に迷いはじめたときは是非「指月の指」を思い出して、まず
真理を見分ける基本を忘れないようにしましょう。