松尾芭蕉の目線で日本という書物を読む

流行り病

こんにちは、デデです。

 

松尾芭蕉の有名な句より拝借します。

 

古池や 蛙飛び込む 水の音

 

この情句は日本民族の心を詠んだ名句として日本に住む人ならどこかで目にする句です。

 

日本民族には通用するこの名句も、外国人に向けて英語にうまく訳そうとすると意外と訳しにくい句らしく、外国人の大半もその味わいがよくわからないといいます。

 

もちろん外国人のなかには日本文化を愛し、句にこめられた情景と日本文化のわびさび、そして5・7・5のリズムのよさを味わえる外国人がいらっしゃるのは承知しています。

 

しかし多くの外国人のように日本語の文字どおり意味だけをとってしまえばなんとかなるという表面だけを考えると、本質から遠く離れてしまうのですね。

 

そこで日本という書物という表現ですが、日本というわが国の社会の思想、歴史、現在わが国で起きている本当のこと、などの比喩です。

 

誰でも書物を読むとき邪心が浮かんでいるような場合、書物に目をとおしても字ばかり追って、本質をとらえていないときがあるものです。

 

結論としては
芭蕉のように本質をとらえながら、日本という書物を読みたいものです。

 

本質をとらえるとはどういうことでしょうか。

そこで松尾芭蕉には失礼ですが、日本人への警告を込めて芭蕉の句をパロディー化してみます。

コロナ禍や 羊飛び込む 夏マスク

 

しかしこれで日本社会の本質をとらえているかというとそうでもないのです。

 

ここで芭蕉の古い池で詠みたかったことを考えれば一目瞭然ですが、芭蕉の句の本質は静寂さです。

 

芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」の本質を少し説明しますと、
人があまり立ち寄らない古い寺院の境内の、その寺院にわきに人の手の入らなくなった古ぼけた池があり、池のまわりは静寂につつまれている。
そのさびしさを味わっていると、カエルが池の中に飛び込み、そのチャポンという水の音が静寂な空気を一瞬破りその音に心が動いてしまったが、心が一瞬だけ静寂さから離れてしまう、それくらい静寂な情景を味わっていた、です。

 

でも静寂という言葉は句のなかに出てきていませんね。

 

それではパロディー化した句の本質は何でしょうか。

さきほどのパロディー化した句の本質は

「夏マスク」までするほどの流行り病の恐怖

主旨ではないのです。

 

「夏マスク」に隠された本質は下記の動画のなかのメッセージに答えがあります。

 

夏マスクを大衆が自ら選んでいるようにさせておくのは、次いつでも政府が流行り病という疑似環境をいつでも大衆に作らせるためです。

 

この政府の思惑が今の日本という書物の本質のひとつです。

 

日本という書物日本という国という書物を読まなければ、いくらお堅い専門書を読んだとて、迷子になってしまっていつまでも真実の可能性にたどりつけず、
その本人も噓をつくか、難しい言葉や横文字でごまかそうとするしかありません。

 

それにサン=テグジュペリ著「星の王子さま」のキツネではありませんが、日本という書物は心で見ないと見えないものであって、

肝心なものは目に見えるところにない

と知りましょう。

 

したがって日本という書物を読めるようになるには、われわれ日本民族が普段から本を読んで情景をイメージする力がないといけません。

 

再び日本文学に立ち返って読解力を向上させるような文化が必要です。

鎖国以前の日本人は教育が充実していて、漢文であろうと難しい漢字であろうと読み書きをこなしていたと聞きます。

 

致命的な読解力の低下がますます日本という書物さえも読めなくしていると主張される元議員さんもいらっしゃいます。

「天の石屋」の天照大御神を洞穴から出したい

 

芭蕉を句を味わえる日本人だからこそ、その俳句の先哲にその心をならい、
芭蕉目線日本という書物を読む心があれば、簡単に他の真実の可能性も見えてくるでしょう。