こんにちは、デデです。
SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)上ではあまりにも信じがたい情報をきっかけに、受信者側が気持ちを高ぶらせてしまうことがあります。
そのためか衝動的に相手をガン否定するようなコメントを入れてしまって、相手ともめてしまうケースがよく見受けられます。
「デマだ」「陰謀論だ」と伝えたい気持ちもよくわかりますし、私自身も反論したくなる心情にかられるときがあります。
「デマだ」「陰謀論だ」という言葉に頼りすぎると、これは深く考えることなく短絡的に善か悪かで決めつけてしまうような代表的な言葉なので、この言葉を使う人のレベルがにじみ出てしまうのです。
「デマだ」「陰謀論だ」と安易に書き込む分にはその場ですっきり満足するでしょうが、言われた側にすればその分ただ不愉快にされただけで、
溝ができる結果しか生まない
のは明らかです。
もともと受けとる情報のほとんどは真相の裏付けが困難で不確実なものばかりだと知りましょう。
SNS上でのトラブルはわが国の憲法の「表現の自由」が味わえる環境であるがゆえに起こりうる、宿命みたいなものでもありましょう。
ちなみに日本国憲法第21条
1項
「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」
2項
「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
そんななかで
絶対的な「答え」があると思いこんでいる刷り込み
も対立が発生する根本原因のひとつであります。
そこで、あまりにも短絡的に「デマだ」、「陰謀論だ」で答えを決めてしまおうとしないほうがいいのです。
「デマだ」「陰謀論だ」で相手方を否定する方法は賢明ではありません。
それなら自分を抑えることを覚え、できるかぎり相手に介入しないほうがまだ賢明です。
古代ローマの哲学者も
「自分を制御できない者がどうして他人を制御できるのか」
と言っています。
面と向かう相手に容認できない意見を持っていてあまりもめたくないときは、相手へのガン否定をやめることが一番です。
そして
「そうかもしれないな」「そうかもしれんな」
とひとクッション置いてみてはどうでしょうか。
「そうかもしれないな」があると
自分の意見を曲げないで相手にも反論しない余裕をつくる一方で、
相手に対しては好印象にとられやすいために、
わかってくれたと安心感と信頼を生ませ、
相手との下手な災いも防いでくれたりします。
釈迦の行動を参考にしてみましょう。
如来の居室とは何か。
すべての人々を憐れむ心の状態が如来の住居である。如来の衣とは何か。
非常な忍耐をする心のおだやかさが如来の衣である。如来の教えの座とは何か。
すべてのものは「空」であるという考えに入ることが
如来の教えの座である。引用先:「法華経」 法師品(教えを説く者)
「心に秘めたるが花」と言ったのは世阿弥ですが、心に反論を秘めながら
「そうかもしれないな」
と相手が見ているものから相手の立場を読み取り、同時に自分の主張もうまく心に秘めておけば、一歩引ける強い姿が美しさの表れになってきます。
そういう反論をせずグッと秘める姿はたとえSNSであっても賢い人はちゃんと見ているものです。
SNS上に限らず一歩引ける器を外の世界でも見せる大人のふるまいは、時にまるで神や仏のように映ってしまうから不思議です。