西郷隆盛と仕末に困る人

西郷南洲論

こんにちは、デデです。

 

ひとつ動画を紹介します。引用先は諸moroさんです。

 

福井県議会議員の斎藤新緑氏の講演です。
ぜひ時間をとってお楽しみください。

 

その講演の冒頭付近で、斎藤氏が以下の先哲の言葉を引用しておりました。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末(しまつ)に困るもの也(なり)。
此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。

西郷隆盛

 

西郷隆盛本人が明治維新の茶番で悟ることになったであろう「仕末に困る人」

余談になりますが明治維新の本質は、伝統のあるわが国の国体を大切に想う「仕末に困る人」をことごとく排除して、日本精神の伝統社会を悪魔崇拝の西洋文明で塗り替えたという点にあります。

 

明治維新から170年あまり、すっかり腐敗してきたわが国の政治においても、
依然として斎藤議員のように仕末に困る人の精神を引き継ぐ日本人はいるのだなと知り、うれしく思います。

 

そしてTwitterやYoutubeなどのSNSを開けば、わが国の悪政のあり方に黙っていられない日本人が次々に増え、そこから政治に立候補して何とかしようとする発信者仕末に困る人であります。

 

草の根レベルでもわが国で仕末に困る人のDNAはまだまだ根強く残っているのです。

 

西郷隆盛が現代で求める仕末に困る人とは、

悪魔崇拝の西洋文明に染まり切れず、奴隷精神をもたない人

でありましょう。

 

仕末に困る人は良心にもとづいて自分の道を見い出しているため、
いくらメディアでもっともらしく宣伝されてもなびくことはありません。

仕末に困る人は心ある人の声に耳を傾ける一方で、今だけ、金だけ、自分だけの精神に陥らない人でもあります。

 

「西郷南洲の遺訓に学ぶ」を著した森信三の言葉を借りると次のようになります。

そこで今斯様な

現世的な力の虚仮(こけ)なることを徹見している人間

というものは、之を外から操ることの出来ないものであります。
すなわちかかる絶対的人格は、之をえさをもって誘うことが出来ない
ここが「仕末に困る」といわれる所以であります。
しかし、かかる人格でなければ真に国家の大業をなすことは出来ないのであります。

森信三

 

レオナルド
レオナルド
「西郷南洲の遺訓に学ぶ」森信三講録

 

外から操ることができない大和魂を持った、仕末に困る現役政治家が今わが国にどれだけいるのでしょうか。

 

斎藤新緑氏のように仕末に困る人として行動できることはそう簡単ではありませんが、彼と魂を同じくする人は

「仕末に困る人」

であります。

 

むしろ仕末に困る日本人がどんどん増えてくれば、勝手に社会もわが国の政府に好き勝手をさせない、望ましい方向に動いていくでしょう。

今までとは違うベクトルが生じることでわが国の他国による支配構造が暴露され、その支配からの脱却から「国家の大業を成し得る」のです。

 

上記に引用した斎藤新緑氏の講演動画は、仕末に困る日本人の心を次から次へとつないでくれる希望にあふれており、その希望が多くの日本人に伝わってほしいと思っています。