狛犬にマスクをさせようとする意味

流行り病

こんにちは、デデです。

 

神社といえば狛犬を連想される方も多いのではないでしょうか。

 

最近始まった話ではありませんが、現在になって再びコロナ禍を機にその狛犬がマスクをつけさせられて見世物のようになっているようです。

 

しかし狛犬という象徴を考えると、あまりそのような扱い方をしてほしくないと思うのですね。

 

狛犬はその神聖な場を守る役割のほかにもちゃんと真理を備えているのです。

 

その狛犬の真理を知っていれば、狛犬にマスクをつけさせる愚かな行為がまるで狛犬を置物か何かにしか考えていない態度がわかりますし、もっと言えば狛犬の真理を重んじず狛犬を見世物扱いにしてまで、われわれにマスクをつけさせようとする浅はかさという、現在の神社庁の品位がうかがい知れるのです。

 

狛犬に感染対策上意味のないマスクをつけさせてマスク着用を喚起する演出は全体的に日本民族として無知以外の何ものでもありません。

 

 

まず狛犬については神社専門メディア・奥宮さんのサイトがわかりやすかったのでこちらからご覧になってみてください。

 

狛犬に限らず、わが国の寺院、仏閣、神社の重要な入り口のところでは、社を守る2体1対の象徴がいて、拝殿の向かって右に口を開けたもの、左に口を閉じたものが構えているのが目につくはずです。

 

その意味はその右側が「阿(あ)形」、左側が「吽(うん)形」です。

 

つまり阿形は物事の始まり、吽形は物事の終わりです。

 

同じような象徴が聖書の黙示録・第21章と第22章で『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。はじめであり、終わりである』とあります。

 

狛犬の真理とはこの3次元世界の事物は必ず始まりがあって、終わりがある、その世界と、その真理を司るものが鎮座する神聖な場との、その境界線の守護神でもあるのです。

 

始まりから終わりまですべて一切のものを司るお方狛犬の先にいらっしゃいますよ、ということです。

 

すべて一切のものが生まれる知恵は古事記上巻に書かれてある言霊原理であり、その言霊原理を前身とするわれわれの日本語が「あ」で始まり「ん」で終わっている構造になっているのは太古の言霊原理を受け継いでいるのですね。

 

これは黙示録・第22章の記載とまったく無関係ではないと思われます。

 

つまりキリストが何らかの方法でわが国太古の言霊原理を体得していた可能性があるという説も一理あるのです。

 

「始まりから終わりまでの一切を司る」神は言霊言霊でいえば言霊50音図のなかに収まっていて、日本語を使う人には言霊50音図の思想というものが脈々と生き続けているのです。

 

言霊学で言うと言霊50音図は誰しもの脳内にある高天原ですが、わが国に神社が随所に多く設置されてきたのはわが国を高天原と見立ててきたからです。

 

それに古事記上巻の言霊原理では「身禊」の教えもあり、今回のコロナ禍のような茶番劇においても物事をしっかり精査し見極めて結論を出す作業が、古代日本語の言霊原理を引き継ぐ日本語民族の役目でもあります。

 

ですから「始まりと終わり」の狛犬の口もとをマスクで見せないようにする発想は、真理の象徴である狛犬を過小評価しているか、何もわかっていないことに他ならないわけです。

 

しかもその狛犬の象徴から読み取れば、このコロナ禍をまるで始まりもなく終わりもなく、永遠に続くものにしておきたいような破壊の意図につながりかねません。

 

つまり狛犬にマスクをつけさせる演出とは、真理を尊重するどころか、すべてにおいてわが国の文化の破壊につながる無知なレベルと思われても仕方がないほどの愚行なのです。